「罪の悔い改め」と「四正道」- 「与える愛」(利己心と自己保存欲を捨てた愛)と『奪う愛』(執着の愛) - 神から分かれてきた魂たちがさまざまな個性あるものとして生きている
幸福の種を撒いて育てる
2023年5月
四正道
幸福の科学のサイトには、教えについて次のように書かれています。
幸福の科学のシンボルマーク
幸福の科学の基本教義は「正しき心の探求」で、その具体的な実践指針は、幸福の原理である「四正道」(愛・知・反省・発展)です。
「愛」は自分から愛を与えていく、「知」は人生の問題を解く智慧を得る、「反省」は天上界につながる心を取り戻す、「発展」はこの地上をユートピアに、ということです。
(幸福の科学のサイト
https://happy-science.jp/whats-happy-science/teaching/
より)
キリスト教の聖書に書かれている「罪」には、ギリシャ語で言うハマティーア(ハマルティア)、「的を外す」(神から離れた人間の状態)という意味があるそうです。
神の心を探求することが、幸福の科学で言う「正しき心の探求」で、その実践のために「四正道」があります。キリスト教でいう「罪」の「悔い改め」は、四正道の実践で心の錆を落とし、神の心に近づいていくということと、同じことではないでしょうか。
また、『マタイによる福音書5章48節』には、イエスの言葉として「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」と書かれています。
幸福の科学では、「正しき心の探求」を行って悟りを得、神のみ心に近づいていきます。イエスが言われた「天の父」のように完全になることを目指し、神の御心に近づいていくことと、同じことのように思えます。
キリスト教での悔い改めはどのように実践されているのか、読者の皆さんから教えていただけると嬉しいです。
愛とは ―「与える愛」と「奪う愛」
「愛とは恵みです。それも、善き恵みであり、他人を生かしていこうとする力です。縁あって人生の途上で出会った人々に、生きていく勇気を与え、力を与え、希望を与えること、それが愛です。」
「愛のなかにも『奪う愛』という名の執着の愛もあれば、『与える愛』という名の、利己心と自己保存欲を捨てた愛もあります。….. ほんとうの愛は、無私の愛であり、無償の愛であり、見返りを求めない愛であり、相手を自由に伸び伸びと生かしめる愛です。相手を縛るのが愛ではありません。相手の心性の善なるを信じて解き放つのが愛なのです。」
「与える愛の本質は、一日も休むことなく、無償で人々に光と熱エネルギーを供給しつづける、あの太陽と同じであることに気づく人もいるでしょう。そのとおりです。….. 奪う愛が産む子供は、嫉妬という名の長女と、自己満足という名の長男です。奪う愛は、結局のところ、幸福のきっかけとはならないのです。」
(大川隆法著『幸福の原点』第1章より)
例えば、子供にいろんなものを買い与えたり、教育を受けさせたりするのが、親の見栄や満足のためであったら、それは「奪う愛」で、子供を生かしていくことにはならないでしょう。
相手を縛り自分の思い通りにしようとする、トリモチのような「愛」(奪う愛)は、相手も自分も決して幸せにすることはありません。
「愛している」と言っても、それが実のところ「自分のため」であったら、ほんとうの愛ではない(奪う愛)ということを肝に銘じ、人を生かしていく愛(与える愛)について、もっと学んでいきたいと思います。
敵を愛する
「愛」という言葉はさまざまに使われます。恋愛、家庭愛、師弟愛、隣人愛、人類愛 ……。どのようなものを仏(神)の心に添った愛と見るかは、私たちにとって永遠の課題であると言えます。
聖書のマタイによる福音書5章44節には、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。あなた方の天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」とあります。家族や友人への愛は、ほとんどの人が経験していると思われますが、敵や迫害する人を愛することは、とても難しいことです。そんなことを人は本当にできるのでしょうか???
大川隆法著『愛の原点』2章に、次のように書かれたいます。
「本来、根本仏(神)から分かれてきた魂たちが、さまざまな個性あるものとして生きていく途中で、元なる、親なる母の思い出、これを思い出して、『一つに戻りたい。同じ母の胸に戻りたい』という気持ちになる、これが、結局のところ、愛の愛たるゆえんではないかということなのです。深く思いを致せば、こうした起源に関する記憶が人間の心のなかには確かにあるのです。」
「愛とは、引きつけ合う力、お互いを結び付け合う力です。この知からは、はるかなる昔にまで遡って、人間に、輝かしい思い出を、どうしても想起させざるをえないのです。」
「この『はるかなる昔に、一なるものから分かれてきた』ということを、正しいと思うか思わないかを検証したいならば、みずからの心の内に深く深くうがち入ることです。…… そのときに、みなさんは、「人を愛せ」ということが、…… 深く深く、奥から共感を感じているものなのかが分かると思うのです。」
「愛とは何かというと、自他一体の考えであり、『自分と他人は別個のものではなくて、本来、一つのものである。他人を愛しているのではなく、自分自身を愛しているのだ。他人を愛しているのではなくて、仏(神)そのものを愛しているのだ』という考えが愛の根底にはあるのです。」
「人間の心の土壌は、表面には石ころがあるかもしれない。また、草が生えているかもしれない。しかし、これを掘り起こしたとき、その土壌のなかに、愛の種子を受け入れるものが確かにあるのです。」
自分が正しいと思える場合、敵に迫害(悪いこと)をさせてはいけないので、智慧を働かせてそうさせないようにすることが大事です。しかし、敵を愛し、敵の心が愛に満たされるように祈ることはできます。
大川先生は、愛を与えるときに智慧が必要であることも教えてくださっています。その人を本当に幸福にする愛を与えることが、無私の心と智慧でもってできるのだと思います。人を憎しみで批判・否定するよりも、愛で共に幸福になるよう祈る方が、心がずっと穏やかで温かくなることでしょう。
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